「八日やくし繁昌記」は、八日やくしの成り立ちや、先人の苦労を後世に残すため、さらには初志を忘れないためにも全30ページの小冊子として、昭和五十五年四月八日に発行されました。
八日市に興味を持っていただき、一人でも多くの方が参加され、皆々様がご利益をいただける事を願いまして、ここに公開する運びとなりました。
- 昭和五十五年四月八日発行
- 筆 者 伊藤俊郎
- 発行人 子守薬師奉讃会
- 印刷所 愛福社
まえがき
八日やくし市が豊田市名物の一つとして今日万余の人々がひしめき合う賑わう縁日として大きくクロ—ズアップされてからもう二十数年にもなる。
此の附近の縁日としては、知立の三弘法(毎月二十一日)、岡崎連尺の二七の市(毎月二、七日)、西尾の八の市等が特に有名であるが、こゝの八日やくし市の様に信心を直ちに商売に生かして、ご利益をそのまゝ御客様に奉納する生い立ちを持った縁日は稀である。
東京の浅草、名古屋の大須の如きは仏参りと商売とを結びつけて繁昌している。
八日やくしもレジャーを兼ねた楽しいお買物と云う意味では確かによく似ている。
やくしサービスも着眼点はこうした所に発足しているのである。
然し乍らこゝのやくしサービスは値段で或いは物で直ちに利益還元をする。
ご参詣のお帰りにはご利やくをそのまゝ御持ち帰り頂くと云う所に相違点があり、そこに繁栄の元があったと思われる。
ところが「喉もと過ぐれば………。」の諺の如く兎角今日の繁栄に溺れて往時の苦心を忘れ勝になり易いのが人の常である。
往時を忘れず、本来の姿を何時迄も保ち続けて、やくし縁日永遠の弥栄を希って止まないものである。
心ある人の為に本冊子が少しでも役立てば幸いである。
最後に本書を発行するに当り表紙並に挿絵を栗原小幸先生にお願いし錦上花を添えて頂いた事を感謝いたします。
昭和五十四年七月 伊 藤 俊 郎
子守薬師の由来
子守薬師は挙母神社境内にある輝雲山瑞光院の別名にて、恐らく同寺院に安置してある薬師如来よりこの名が出た事と思われる。
同寺院は御縁起にもある通り天長年間(西暦八二四年)の昔より当地方に深いつながりを持つ歴史と由諸ある寺院にて、古老の伝える所によれば毎月八日、十二日には昼夜を通じて盛大な縁日が同境内にて行われ、殷賑を極めたとの事にて、特に徳川泰平時代、挙母神杜例祭に山車の前で余興として行われた歌舞伎狂言の評判記(挙母城主内藤候の御覧に供し芸の出来栄えを祐筆が記した巻物)を旧暦十月八日の縁日に当薬師の本堂に掲げてその功を発表した為、これを見んものと遠近を問わず押し寄せた人は大変だったと云われて居る。
他に楽しみのなかった昔としては当然であったろうと当時の繁昌振りが想像される。
薬師如来は特に眼病の仏様として有名で、医学の余り発展していない昔は患者の御詣りが後をたたなかったと云われている。
その他本堂内には脇尊として安産の守り本尊、とげ抜きに特効のあるとげ抜地蔵尊、皮膚病によく効くおしろい地蔵尊等が安置され何れも庶民に親しまれたものである。
こゝの大祭は毎年十月八日に行われる。
十二年目に一度の午年にはお開張法要が厳修され、特に六十一年目のひのえ午の年には大開張が行われる習慣になっている。
昭和四十一年が丁度その六十一年目の御開張の年に当り四月七日より四日間めずらしい琵琶説教等を交えて大開張が盛大に厳修されたのである。
近くは昨年十月、十二年目のお開張が厳修されたばかりである。
尚、霊験あらたかな御縁起には次の様に記されている。
薬師如来御縁起
抑々(そもそも)当山に安置し奉つる本尊東方善逝薬師瑠璃光如来の御尊像は、今を去る一千百余年前、淳和天皇の御代(西暦ハ二三~八三三)行基菩薩の御真作にして大悲の御容(かんばせ)、玉の如く、青蓮の御睫(まじなり)豊かに垂れ合い霊験新(あらたか)にまします。
その往昔(むかし)、一老翁有り、目を患い百薬手を盡せども更にその甲斐なかりしが、此の醫王に祈り奉りしに、七日を満ずる夜の夢に本尊御手づから瑠璃壷の中の霊薬を授け給うと見て程なく眼(まなこ)、明かとなれり。
此の霊験を聞き伝えて遠近奉賽の輩、信心の掌を合せ渇仰の誠を致して霊応を蒙る者多かりき。
然るに元亀三年(西暦一五七二)不幸火を失し灰爐(くわいじん)の厄に遇い、堂房悉く鳥有(うゆう)に皈したれば、さすが無比の霊仏も忍土娑婆(にんどしゃば)の化縁盡きさせ給ひけるかと悲しみしに、尊や不思議なるかな前庭西南の生い茂る楠樹の下に余焰をさけて慈容古(じよういにしえ)に変らずましませし為、人々奇異の感を深くし益々皈依尊崇し奉れり。
今奥(ここ)に恭しく開扉し奉る信心の善男善女親(まのあた)り尊容を拝し擁護を祈り奉るべし。
神力誠に凡情の測度所(はかるところ)に非ず、衆病を悉除(しつじょ)し給ひ当来浄土の妙果を得せしめ給うべし。
願くば如来慈光を倍加し哀愍護念(あいみんごねん)し玉わんことを。
やくしサービスの発足
世界大戦が終りボツダム宣言がなされてから既に六年の年月がたち国内にやっと平和がおとづれ、唯一の地元産業であるトヨタ自動車も順調な伸展を見せこれに呼応して、旧挙母の市街地の商店街もやっと活気をおびて街に買物客が溢れる様になって来た。
所が戦前迄は挙母の繁華街の中心が中町であったのが、戦後は挙母駅を中心に駅前通り昭和町とその中心部が移動して駅付近の発展がめざましくなって来た。
逆に交通機関より縁の遠い竹生町、中町、本町等はやゝもすると忘れられて行く情勢にあった。
これは大変である、このまゝではよくない、中町商店街の店主は何とか発展策を講じなければならないと云うので、この問題で中町発展会の第一回の役員会を開いたのが昭和二十六年夏の事であった。
役員の間でも色々と意見が出たけれども最終的には地元の好条件を生かす事がよい。
それには前記の様に霊験あらたかな子守やくし如来様をこのまゝにして置いては申し訳ない、何とかしてこのご利益を現代風に商道を通じてお顧客様に受けて頂いて共存共栄の実を挙げようと一念発起し、やくしサ—ビスとなって発足したのである。
このやくしサービスは諸言でも述べた様に、毎月八日一日を商品を通じてお顧客様に利益を奉納しようと固く申合せをしたのである。
交通の便のない悪条件の街へお客様に来て頂くには形だけでは駄目である。
どうしても誠意と信用とによってお客様の心をガッチリとつかまなければならない。
それには真実良品を安く売る。
商品によっては月に一回だけの事なれば原価で提供しよう。
そうすれば誠意は何時の日にかお客様に通ずるであろうと固い信念の基に商店主一人一人が真剣にこの事業に取り組んだのであった。
そこでこの趣旨を徹底し実行にうつす為、第一回の役員会以来毎月一日に会長(伊藤)宅の二階にて定例役員会を開き、前月の行事内容を反省検討し、続いて当月八日の行事について協議し、そして決定した事項は直ちに実行に移す事にした。
行った事業
昭和二十六年から昭和二十八年迄のニケ年間に、毎月の役員会で決定して行った事業は慨略左の通りである。
一、素人のど自慢
子守やくし本堂前の石積みの高台より西へ張り出し舞台を仮設し、紅白の幕をめぐらし、マイクを備えて、飛び入り勝手次第、勿論舞台づくりから鐘を鳴らす審査員そして賞品や参加賞を渡す係り迄一切発展会の役員で行った。
二、無料映画公開
挙母神社境内の拝殿を会場に、映画は市の教育映画を無料で借り受け、勿論技師は市の吏員に無料奉仕をして貰い、夜七時から九時迄位映写会を行った。
三、宝さがし
場所 … 第一回は挙母神社境内
第二回は中町商店街の中
景品 … 各商店より寄付をして頂き、引き換えは子守やくしにて行う。
結果
一、ニ、三何れも子供が多く、大人で集まる人は単に見物を目的とする人のみの集まりに終り、余興が済めば直ちに解散してしまい販売には何らプラスにはならなかった。
むしろ、役員はその準備や進行係に追われ全く商売にはならなかった。
四、やくしサービス券
当日に限り御買上げ百円毎に一枚のサ—ビス券を出し、十枚以上二百枚迄各段階に応じ、裏面に記載してある景品と引換える。
引換え場所はやくし本堂にて役員が二名づゝ交替で当番をつとめた。
結果
着眼点は非常によく半ケ年位は順調に券の消化もよかったのだが、やっぱりこれも永く続かない次の様な欠点があった。
⑴お客様としてはなかなか枚数が溜らないので引換えが出来ない。
少しの枚数では景品が貰えない。
⑵しまい忘れたり、家に忘れて来たりする為に引換えが面倒になり従ってお客様が余り欲しがらない。
⑶全店が出さなければ効果がないので自然に出す店が少くなって来た。
五、やくしサービス手拭 一本十円
当時の地元新聞に大見出しで「一本十円のやくし手拭…新登場」と大いにさわがれたものである。
これはやくしサービスは安いと云う宣伝を地で行く為に別染で一本の原価が正味二十八円五十銭かゝったものを一本十円で販売した。
従って差引一本に付き十八円五十銭の宣伝費を各店が払った事になる。
然も此の手拭は衣料品店だけでなく、菓子屋でも、金物屋でも中町の全商店でこれを販売した。
アイディアとして正に奇想天外であった。
結果
発売当初二、三回は商店の方がビックリする位早朝からお客が手拭を買わんものと列をつくる有様だったが、こゝにも又永続きしない原因があった。
⑴ 回を重ねるとお客様の方が利口になり早い中にあちらこちら買集める。
⑵ 手拭族は毎回きまったお客様に限られ遂には大人では体裁が悪くなり、大半が子供を使って買集める様になってしまった。
⑶ 今度は商店の方が考えて、当日販売予定数の半分を早朝店頭用とし、残り半分を当日のほんとうのお得意様に準備して終日値内をつけて販売する様にした為、不充分乍らある程度の目的を果す事が出来た。
⑷ 然し乍らこれも半ケ年以上続けると各店の負担額が目について段々と販売する店が少くなってしまった。 それでも一ケ年間に約五千本の手拭を売り盡した。
◎以上の様な諸行事(一、〜五、)をニケ年間に亘り顧客吸引策として実行して来たのであるが何れの行事も結果としては不成功に終り、その間毎月の役員会にも不平が出初めたのである。 その主な理由は、
(イ)毎月の広告費は半額は発展会の負担、半額は商店主負担となっていたが発展会としても宣伝費が年間経費の中で、大きなウェイトをしめる様になり且又、店主の方も効果の挙らぬ経費として目について来たのである。
(ロ)ニケ年間に発展会の宣伝費は約三十万円に達し、当時の予算から比較すると相当の額になったのである。
(ハ)正に断念の寸前迄追いつめられ、会長は役員から攻められ全く窮地に立ったのである。
(ニ)然し乍らその都度中町を捨てゝ中央部へ転出する意思があるかどうか、無ければ少くとも三十分の一日に当る八日一日だけお客様が吸引出来ない様では中町の商店街はどうなるのだ………と、この結論に突き当ってそれではもう一度続けてやろうと云う事で又しても最後の半年を頑張った。
六、時間切り特売
やくしサービスを始めてから丁度ニケ年半、何をやっても実らず正に息切れの寸前、昭和二十八年九月の役員会で伊藤貞三君の発言で、横浜で成功している時間切り特売のチラシを見せてこれを一つ実行してはどうかと提案があり、皆んなに計った所、藁をもつかみたい矢先、満場一致で賛成があったので、早速その月の八日から実行に移す事にした。
商店街を東・中・西の三部に分けて各部とも一店づゝ朝の九時より午後の三時迄、一時間づゝ時間を区切って事実上の出血超特価品を一品づゝその時間中に限り提供すると云う仕組で、その時間が来るとその店の前へ「唯今時間切り特売中」の立看板を三本作製、目印しに立て、お客へ知らせ一時間の持ち時間が終ると次の店、又次の店へとバトンタッチをして、看板を持ち廻った。
従来のチラシもこゝで一変して時計の時間をクローズアップしたチラシに変更して大いに宣伝これつとめた。
結果
この時間切りは見事に当った。
お客様はチラシを手に持って今度はあの店、この次はこの店だと終日特価品を追って買い廻り、俄然中町の道路は人で埋ってしまった。
起死回生とは将にこう云う時の事を云うのであろう。
やっと生気を取り戻した八日やくしは翌月は先月の倍の人出となり、翌々月は又その倍と云う程の人気でこの時間切り超特売が八日やくし繁昌の端緒となった。
それからは毎月お客様が潮の如く押し寄せる有様となり、遠近を問わず人から人へと宣伝されて益々賑わう様になって来た。
七、宣伝用幕及旗
開始以来永年に亘って遂次製作されたものである。
八、アーケード
吊り看板 五基
昭和三十五年夏、豊田市に唯一つのアーケードが完成してからは従来の横幕に代って風雨に犯されずに自由な看板を吊すことが出来るので大変便利になり、この方面では格別熱心で特技を持って居られる松村晴夫君が活躍、廉価で然も効果の挙がるスバラシイ看板を次ぎ次ぎに考案して吊せば中町商店街は横のデパート、プラカードのトンネルを通り抜ける様な感じになり益々賑やかさを増して来た。
九、露店商との提携
やくしサービスが三年目には入りやっと軌道に乗りかけた頃、地元露店商(当時は神農会と称していた)の会長、中嶋浜吉氏より出店の申し込みがあったので早速両者役員話合いの上、相方共存共栄の趣旨に基き固い契約を取り交わし、新発足をする事になった。
以来毎月賑やかな露店商の呼び声は一段と活気を添える大きな原動力ともなった。
契約事項
(一)お互いに契約事項を守り共存共栄につとむる事
(二)子守薬師の繁栄の為に両者とも無条件協力をする
(三)万一、今後毎月八日市内、他の商店街に市が出来ても当日は中町のやくしサ—ビスに協力する
(四)露店商は地元商店街に迷惑を及ぼす様な場所には成る可く店を出さない事
(五)露店商の中にイカサマ商品を販売する者を発見した場合は、組合長の責任に於て直に退出して頂き、決してお客様にはご迷惑を及ぼさない事
(六)商店街は道路使用の申請をするほ勿論、露店商に対し、戸板・箱・電源等を提供し、商売がし易い様に協力する事
(七)其の他目的遂行の為必要が生じた場合は両者協議の上実行する事
口契約ではあったが書いたものより固いと云われる特殊な団体だけに、以上の七項目を決定した後、両者役員揃って薬師如来の仏前に参拝し、御神酒を棒げて固く提携を誓い合ったのである。
アーケードとやくし市
昭和三十五年六月、成田正雄会長の努力によって立派に中町アーケードが完成し豊田名物が又一つふえた。
このアーケードは延長約二〇〇米、中町商店街の中央部をL字形に日米金属の手によって施工された。
総工費は約一千万円、当時としては余程の英断であったが、然も会員の中にはこうした施設を何ら必要としない給与者の方も居られる。
卸売業者も含んでいる。
その中で町内がよくまとまったと施工者の日米金属が驚ろいていた位である。
然しこれは中町の商店主の方々が昔から理解があって非常に団結のし易い伝統があった為であろう。
そして八日やくし市が成功したのも恐らくこの団結精神が底深く流れていた為であろう。
照る日も、雨の日も、風の日もこうして傘も入らずに楽しいお買物の出来る街、アーケードセンター中町商店街は一躍脚光を浴びる様になった。
アーケードの御陰で横の吊看板は自由に下げる事が出来、五ケ所に設備きれたマイクからは軽いメロディが流れてお客様の購買心をそゝる。
勿論やくし市にこのアーケードが果す役割は予想以上大きなものがあった。
例記すれば、
(イ)道路全体が横のデパートの感を呈し独特な雰囲気が出る事。
(ロ)「雨の日、風の日も何ら支障なく露店が店を出せる、従って露店独特の見苦しい布張り屋根は入らない。
(ハ)マイクを通じて迷子等の緊急連絡が取れて大変便利である事。
(二)アーケードの各所に自由に吊り看板が出来、特に風雨に晒されない為に濡れてもいゝ様な造花等の飾り付けが自由に出来る事。
(ホ)ポールを利用して季節に相応しい飾りつけが出来る事。
銀座・本町両発展会との合流
やくしサービスを始めた当初のニケ年間、前述の様にあらゆる宣伝と役員の努力にも拘らずどうしても軌道に乗らない、一方経費は益々膨張する。
そこで考えたのが同じ条件にある発展会に呼びかけて合同宣伝をする事によって少しでも経費の節減を計ろうと思い立ったのである。
早速、役員会の賛成を得て先づ銀座発展会へ話を持ち込んだ。
所が当時一向に芽の出ぬ中町発展会の行事には更に耳を貸しては貰えなかった。
時を置いて又、再度申込んだが此の時もすげない肱鉄砲だった。
此の頃が中町発展会のやくしサービスとしては万策盡きて将に瀕死のどん底にあった頃である。
所が、「捨てる神あれば拾う神もある」全くよくしたもので二年半目に行った起死回生の時間切り特売で一躍芽を吹いたやくしサービスに今度は銀座発展会が黙って見ている筈がない。
それでも前に断った手前直ぐには遠慮して居たが遂にたまり兼ねて協同広告の申し出があった。
所が今度は中町側の役員が承知するわけがない、残念乍らとお断りをした。
暫く間を置いて再度の申し込みがあったがこれも即刻断った。
丁度相撲のしきりと一緒で相手が二回仕切りを制すればこちらも二回待ったをかけた様なものであった。
そこで銀座はやくしサービスの共同チラシをあきらめて遂に単独で「八日特価市」と称するチラシ宣伝を始めた。
こゝで一番気を揉んだのが瑞光院である。
宛も今迄共に瑞光院を奉讃して来た二つの発展会がチラシを通じて相競う様な様相を呈して来たからである。
そこで瑞光院のお世話人と洞泉寺の住職とが肝入りで両者の調停役を買って出た。
時に昭和二十九年十二月の事である。
こゝに半才に及ぶチラシ競争も円満に手が鳴り、明けて三十年正月からは両発展会が相提携してやくしサービスによってやくし如来(瑞光院)の益々繁栄を図る事になり、八日やくしを知らせる煙火も両発展会で費用負担をする事になった事は誠にうれしい事で一大飛躍と云わなければならない。
本町発展会はそれより約二年後に仲間入りをして以後は三つの発展会が一丸となってやくし市を大きく盛り挙げる事になった。
生れる時の悩みが大きかった丈けに喜びも又一入であった。
この頃中町の八日やくしが繁昌するにつれて、他の発展会の動きも又活発になって来た。
喜多町発展会は毎月三日毘紗門市、竹生発展会は毎月二十一日弘法市とそれぞれ地元の信心詣でとつながりのある縁日を市日と定めて旗や幕をつくり、新聞チラシによってお互いに市へ顧客を寄せるために専念した。
宛も挙母市の商店街は市のオンパレードの感を呈した。
所が中町のやくし市以外は一向に人出がなかった。
そこで何時の間にか各発展会はお互いの毘紗門市や弘法市の他に八日には〇〇発展会八日市と称してチラシが入る様になった。
西町も同じく八日市のチラシを入れる様になった。
そこで発売元の中町より商店街協同組合に対して八日市の専売を他の発展会が邪魔をする様な事は取りやめる様に申し込んだのも此の頃だった。
所が事実はこれに反して各発展会の宣伝が逆に八日やくしの人出に拍車をかける様な結果になった。
さる代りこうして八日市の名が全市を風靡した為、やくし市の声は逆にうすくなり、段々とやくしサービス市を人呼んで「八日市」と畧称する様になっていた。
毎月八日、暁雲を破って響き渡る三発の煙火の合図と共に市内、西加茂は勿論、北は足助の奥旭村、東は遠く松平の奥大沼の辺りからも、一度は豊田市の名物八日市を見んものと早朝より押し寄せる人の波で街は十時から十二時頃の最盛時には中央部は殆ど通り抜けの出来ない程の混雑を呈する様になった。
歴代会長の努力
勿論これには歴代の発展会長並に役員の不断の努力と会員である店主の皆さんの一人一人がサービス精神に徹して販売する商品の一品一品に利益奉納の誠を打ち込んで来たお陰で、今日の繁栄を生んだものである。
歴代の会長名 就任期間
伊藤 俊郎 昭23・4〜昭31・3
成田 正雄 昭31・4〜昭36・3
加納 宗一 昭36・4〜昭37・3
松田 勇 昭37・4〜昭39・3
神谷 数一 昭39・4〜昭41・3
松田 勇 昭41・4〜昭45・3
築瀬 敬三 昭45・4〜昭47・3
神谷 数一 昭47・4〜昭48・3
伊藤 貞三 昭48・4〜昭50・3
杉本 定治 昭50・4〜昭54・3
塚田 保 昭54・4〜
前にも述べた様に八日やくしの繁昌の陰には露店商が大きく一役買っているのである。
所が露店商も又八日やくしには他の市には見られない大きな収獲があるので、名古屋、岐阜、一宮辺りの遠方から一流のテキヤが乗り込んで来て、その数は毎月増加する一方で昭和四十年頃には裕に百本を越える出店数になって来た。
然もどの店も最も賑わう場所を得んものとその日の朝は場割りが大変である。
組合長も(露天商は小商業協同組合と云う)の柴田さんも一苦労である。
所が益々ふえる露店商は遂に商店街の中だけでは納らなくなり沢幸呉服店辻から南、豊田信用金庫へ抜ける道路両側へぎっしり布の天幕が張られお客で埋まる様になった。
その結果
完全に交通は遮断されるに至った。
この為、警察から度々注意され、やがては片側のみ露店が許される様になり、それでも尚警察への投書が絶えず遂に「断」が下される日が来たのである。
これ以上露店商は中町の中での張り店は認むる事はまかりならぬから至急に善処して貰いたいとの通知を受け、松田勇会長は八日やくしとして大きな転換期であるとして直ちに露店商と発展会員合同の臨時大会を一区会館にて開催、皆さんの意見を聞く事になった。
結果は交通問題優先の時代の事とて如何とも成りがたく警察の云う通り、今後は露店商全員挙母神社の境内へは入る事になった。
こゝに於て昭和二十九年以来十ニケ年に亘ってアーケードの下で客を呼んでいたあの懐しい呼び声は姿を消す事になった。
その後神社境内へ納まった露店商は柴田会長の元にうまく統卒され今迄以上の店が配置よく店を張りなかなかの賑わいを呈している。
子守薬師本堂の方は同じ境内へ露店商がは入った為参詣者は一躍数倍にふえ却って繁昌する様になった。
一方商店街の方はむしろ販売路線が延長された感があり、多少はお客の混雑が緩和され、従来は午前中と精々午後二時迄位が賑わう時間であったのが現在では四時頃迄延長して賑わう様になって来た。
そこでもう一歩突込んで検討して見ると、客層が露店商と商店側と二分されて来た事がわかる。
こゝに商店街は着目しなければならない。
この辺が今後の八日やくしの前途を占う大きなポイントである様に思われた。
其の後の動向
前述の様に八日やくしは幾多の困難と歳月を経て不動のものとなり、今では一万人近い人出が終日商店街から子守薬師の沿道を埋めつくす程になりその繁昌振りは正に驚威的であると云わなければならない。
勿論この繁栄の原因は緒言で申上げた様に信仰につながる正しい商人の誠意が実を結んだのであり、即ち今日一日はお薬師様に利益を奉納するのだと云う商人の心構えがそのまゝお顧客様に通じて本日の繁栄を見たのであると云っても過言ではない。
所が最近販売ラインが拡大し、露店商とは直接販売場所が一諸でない為に刺激が薄れ勝になり、加えてどうしてもマンネリズムになる傾向が現れて来たのも事実である。
具体的にその重な点を検討して列記すれば、
一、肝心本元の子守薬師の繁栄を忘れてはい ないか?
二、利益奉納の気持ちを忘れ、自己の利益のみを追求してはいないか?
三、露店商の拡大と地元商店とのアンバランスを常に研究する要がある
四、商店街と露店商とは扱い商品の内容が違う、従って自然客層も違う為、サービスの方法を変える可きである。即ち質より値で勝負をするのが露店商なれば、商店街は良品を廉価でサービスする方法を取る可きではなかろうか?
五、店頭商品は赤札で勝負、店内の一般商品は別にサービスする方法を考え、要するに二本立てのサービス方法を研究すべきではないか?
六、八日やくしに関連を持つ人々、即ち ⑴お客様も、⑵商店街も、⑶露店商も、⑷子守薬師も四者が共々公平にその恩恵を受けているか?どうかが問題である。飽く迄も共存共栄でどこに不平不満があってもならない。
七、みんな笑顔で迎える八日やくしでなければならない。
日曜朝市
こうした発展会の行事見直しの声が役員会におきて来たので築瀬会長が中心となって高山の朝市にならい、日曜朝市を桜町新道で行う事になった。
昭和四十八年七月の第一日曜日から「新鮮な土のついた野菜を朝市で」をスローガンに、宣伝は自転車隊を組織してチリンチリン鐘を鳴らし乍ら廻った所、最初二、三回はものめずらしさに人が出たが、結局一ケ年間位で自然消滅の運命となった。
こゝで再度発展策を練り直す事になり、伊藤貞三会長の提案で日曜朝市に代る何か新しい発展策を考えてはどうかと役員に発展策の私案の提出を要求され結局左の二案が提案された。
A案 抽選により福引を行う
B案 八日市友の会を結成する
この中B案は少し問題が大きいので取り敢えずA案を採択する事になり、昭和四十八年六月より早速実行に移す事になった。
八日やくし大福引
この方法は八日当日に限り御買上の御客様に福引券を進呈し、山田屋横の中町新道に於て抽選器によって福引を行い景品を渡す方法で景品は重に次の様なものが使用された。
・かっぱえびせん
・ラーメン
・缶詰
世話は当番制で会員が二人づつ交代でつとめ時々,マイクで御客様にアッピールして景気をつけ、なかなかの上人気である。
法被の新調
昭和五十年度の事業として、杉本定治会長は、やくし市のムードづくりに着眼せられ、揃いの法被の調製を思いつかれた。
その後新調されたきれいなヒバ色に赤字の揃いの法被は、店頭に愛嬌をふり撒く店員にマッチして、一段と賑やかな雰囲気が、かもし出された。
動向調査
昭和五十四年二月八日、豫てから懸案だった、お客様の動向調査が、杉本会長の指示によって実施された。
実施箇所は、午前九時から午後四時まで、左の四カ所で行われた。
①銀座発展会駐車場
②山田屋横
⑧子守やくし参道西入口
④挙母神社鳥居先南口
この結果、実際にお客様が、何の目的で、どういう時間に、何処を通られるお客様が多いか、色々な点で実際に基いたデーターが、はっきりしたので、今後の方針を立てるのに大いに参考になった。
今後も、こうした調査は、時々行われる予定である。
八日やくし実行委員会の発足
昭和五十四年、塚田新会長により、桜町・本町両発展会の、八日やくし実行委員会が結成され愈々今後の運動に向って一歩前進した事は誠に結構な事にて、今後の委員会の活動が、大きく期待される。
奉讃会の発足
前述の様に八日やくしは子守薬師を中心に商店街、露店商と三者三巴になって初めて繁栄の道が開かれるのである。
最近福引が行われ一応の活気は取り戻したものの内容的には大きな変化が見られない。
もう一歩前進する何ものかが望ましい。
こうしたことから三者の共存共栄の実を挙げる為に子守薬師奉讃会が昭和五十二年二月に設立弧々の声を挙げたのである。
奉讃会の規約は左の通り。
子守薬師奉讃会規約
第一条(名称及び事務所)
本会は子守薬師奉讃会と称し、事務所を子守薬師内に置く
第二条(目的)
本会は子守薬師を信奉し、その御加護の下、会員相互の親睦と繁栄を図るを目的とする。
第三条(会員)
本会は下記会員を以て組織する。
A会員……… 瑞光院世話人会員
B会員……… 桜町商店街・本通発展会々員
C会員……… 露店商組合(愛知県小商業協同組合)会員
・各会員中よりそれぞれ若干名を選出し、代表会員とする。
第四条(事業)
本会は下記事業並びに行事を行う
⑴ 毎月八日、瑞光院に於て「家内安全・交通安全・商売繁昌」等の祈願会を厳修する。(A会員)
⑵ 毎月八日やくしサ—ビス市を行う(B、C会員)
⑶ その他これに附随した事業
第五条(役員)
本会に下記役員を置く。
会 長 一名
副会長 三名
会 計 二名
監 査 二名
幹 事 若干名
第六条(役員の選出)
幹事は総会に於て選出し、正、副会長、会計監査は幹事の互選による。
尚、顧問を置く事が出来る。
第七条(役員の任期)
役員の任期はニケ年とし、再任を妨げず、欠員を生じたる場合、後任者は会長これを選任し、任期は前任者の残任期間とする。
第八条(会議)
会議は総会、役員会とし、総会は年一回五月に開き役員会は必要ある時随時会長これを招集する。
尚、総会は代表役員会を以てこれに代える事が出来る。
第九条(会計)
本会の経費は会費又は寄附金を以てこれに当て、会費は総会に於て決定する。
負担内容
A会員……… 毎月八日瑞光院の法要儀式に奉仕する。
B会員……… 毎月八日のやくしサービス市並に子守薬師の宣伝を行うと同時に会費として
月額 桜町商店街 一〇、〇〇〇円
月額 本町発展会 五、〇〇〇円
を負担する。
C会員……… 毎月八日市に出店する露店商(愛知県小商業協同組合会員)組合として
毎月出店者数に応じて一万円~二万円を会費として一括納入する。
第十条(規約の改廃)
本規約の改廃は総会に於て行う。
第十一条(会期)
本会の会期は三月三十一日とする。
子守薬師縁日由来パンフレット発行
奉讃会の発足と同時に先づ子守薬師の宣伝をする為に「子守薬師縁日由来」のパンフレットニ万枚を作成した。
勿論内容としては薬師如来の御縁起。
尼寺三十六ケ寺に指定された由緒ある寺格の高い尼寺である事、其他、祭日行事等も盛り込んである。
パンフレットは寺は勿論、発展会の会員等を通じて広く信者や御客様に配付する事にした。
続いて五十三年度は十二年に一度の秘仏薬師如来御本尊の御開張とあって諸調度品が新調され、畳替えが行われる等、寺がよくなると同時に催事も十月八日、九日と二日間に亘り御施餓鬼御詠歌大会等が行われ盛大に御開張が厳修された。
勿論、奉讃会としても大きく協讃して本年度中最大の行事となった。
尚、本年度の事業計画として「八日やくし繁昌記」の出版も予定されている。
八日やくしの今後
然し乍ら、奉讃会としては今後の運営が問題であると同時に又、大切な事である。
今後はA、B、C会員がそれぞれの立場に於て目覚めて頂き大きく発展を考えて貰わなければならない。
それでこそ初めて奉讃会の目的が達成出来るので、今後スバラシイアイディアを出して頂きこれを実行する事が今後の発展につながるものと確信いたします。
そうして八日やくしが益々繁昌し、後年いついつ迄も私どものものとして繁栄を𧦅歌する事を望んで止まない次第である。
最後に本稿を終るに当って「石の上にも三年」「まごころは必ず通ずるものである」この二つの格言を再度嚙みしめて良言とせられん事を望む次第である。
祭日行事
・毎月八日 縁日法要
・三月八日 御忌会
・五月十日~十二日 おためし(花のとう)
・七月八日 孟蘭盆会
・十月八日 正当薬師祭
・御開帳 午年十月八日
寺宝釈迦来涅槃図
トゲ抜き地蔵安置
トントン豊田の名物は
一に自動車二に団地
三に子守の薬師市
行基菩薩のお作なる
霊験あらたか薬師さま。